息子が二歳のときに、はじめて自分で作った夢の乗り物。彼はこれを「しょうぼうしゃ」だと言った。それを聞いて、僕はまっさきにレゴのユニークな広告のことを思い出した。子供の想像力の逞しさだけでなく、やがてそうは見えなくなってしまう大人の儚さも内包しているようで好き。

一歳になったとき、デュプロの機関車をプレゼントした。デュプロは幼児向けのレゴ。ブリックのサイズが大きく、子供の小さな手でも扱いやすい。子育て者を気取るなら、誤飲の心配もない。なによりも、可愛い。はじめのうちは、転がしたり投げたりしているだけだったバラバラのレゴは、彼の成長にあわせて、ひとつまたひとつと繋がっていった。

二歳になるとデュプロでは物足りなくなってきたのか、僕が遊んでいたふつうのレゴ、彼の言葉で「おとなのレゴ」に興味を持ちだした。彼が触りたいというのなら、僕はなんでも触らせるし、使ってみせる。それが、マッチだろうとナイフだろうと。豆粒のようなおとなのレゴは、二歳児の不器用な手では掴み取るだけでやっとだったが、一ヶ月もするとブリックの山のなかから、おなじ種類のものを選び取り、繋ぎ合わせたり積み重ねたりするようになった。僕は家のなかをもっとレゴだらけにしたくなった。

三歳になった彼は、毎日のようにレゴでなにかを作っている。それはなに?とたずねると、たいてい車か電車か飛行機という答えが返ってくる。よほど乗り物が好きなのだろう。好きなものや、夢中になれるものがあるのは良いことだ。それがなんであれ。

この頃は、彼の好きな乗り物を組み立ててはバラバラにして、また同じように組み立て直すという遊びをさせている。延々と黙々と、これをくりかえす。彼も楽しんでいるようだ。僕はその様子をみながら、ギターを持って Lego House を歌うのが好きだ。ときどき、必要なパーツを隠したり、不要なブリックを混ぜたりして、いじわるをしながら。

I’m gonna pick up your pieces ――― レゴは未来の自分へのプレゼント。