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にゃんことうんこのランデブー

鼻に人参をぶらさげた馬もいれば、尻にうんこをぶらさげた猫もいる。それは、猫とくらしはじめてまだひと月の新米飼い主が、引っ越したばかりの新築マンションで、洒落た”にゃんにゃんライフ”に夢を膨らませていた矢先に見た、悪夢。しろい床に、しろい家具。まっしろのミルキーな空間が、クリーミーなうんこで染めあげられていく様は、洒落にもラテアートにもならない光景だった。

ウンチングハイとフロイト

ベッドの下、冷蔵庫の上、クローゼットの中… 掃除の手がとどかないところのゴミやホコリを、モップのように拭き取ってくれる便利グッズ、子猫。ときには、掃除機のように吸い込んでしまうことも。もしそれが、腹によくないものだったら、たいへん。たとえば、糸くず。それに、髪の毛。

うんこの前後に、突然ハイになって家のなかをとびまわる、通称”ウンチングハイ”。発情した猫のようなおたけびをあげたりして、主をおどろかせる。じっさいに、排泄と性欲は密接な関係にあるとも。

フロイトは、幼児期における性欲の発達段階のいくつかのひとつに、肛門との関係を位置づけている。未熟な脳、あるいは動物的な欲求という意味においては、赤ちゃんも猫も似たようなものなのかもしれない。つまり、うんこって快感っ♡ てこと。

ハードにさせて

その夜、芋のウンチングハイは、いつにもましてハードコアなものだった。なにしろ、うんこといっしょに、家じゅうころげまわっていたのだから。ときにはキッチンで、ときには床で、ときにはベッドで。どっちがにゃんこで、どっちがうんこか、わからなくなるくらい、ハードに。

そのときは、なにが起こっているのかも。うんことじゃれあっているのかなって。ハイをとおりこして、うんこがおもちゃにでも見えちゃってるのかなって… ううん、引っ越したばかりの新築マンションがくそまみれにされていくなんて、幻覚をみているのは、きっと私のほう。いますぐ、この悪夢から逃げだしたくて。

教訓、その一。悪夢から逃げても、うんこから逃げるな。

髪の毛と干し柿

なにが起こっているのか、私にだってわからなかったのだから。猫になんてわかるはずが。髪の毛をのみこんでしまったことも。ケラチンは消化できないことも。腸のなかでうんこがつながってしまったことも。じぶんの尻から大量のうんこがぶらさがっていたことも。干し柿みたいに。

逃げても逃げても、うんこが追いかけてくるなんて。芋にわかるのは、その恐怖だけ。悪夢だったのは、私よりもきっと彼女のほう。うんこを尻から振り切ろうと、床や壁にこすりつけたり、家具にうちつけたりして、家のなかをとびまわっていたのだから… なんてかわいそう。

床におちている、ゴミやホコリ。誤飲のなかでも、猫の食指がうごきやすく、とくに危険とされているのが、”紐や糸”。もちろん、髪の毛も。肛門から排出できればよいが、腸壁にはりついたままになると、命にかかわるような重症化の原因にも。

教訓、その二。猫の主たるもの、日々の掃除を怠るべからず。

尻の一縷

もうどっちがにゃんこで、どっちがうんこでもいいから。とりあえず、はやく終わって。その一心で。

ピンチになると、人は意外と冷静なものだ。彼女の尻を尻目に、私は粛々と掃除の支度をはじめていた。こちらが取り乱したり、追いかけたりして、猫を刺激すれば、二次糞害、三次糞害をまねきかねない。あれだけの量のうんこを、たった一本でつなぎとめている髪の毛だって、きっとそうながくはもたないはず。

一本の髪の毛に、もじどおり”一縷”の望みをかけ、私はウンを天にまかせた。

教訓、その三。猫の主たるもの、ときにはあきらめも肝心。

ウン動の第ニャン法則

はげしくこすりつけられたうんこは、壁一面の黒板をはしるチョークのように、みるみる小さくなっていった。

尻にぶらさがっていたうんこの、あれだけの質量のほとんどは、いったいどこへいってしまったのか。言い方を変えれば、どこに”保存”されたのかということだけれど。白い床、白い壁、あたらしいソファ、糊のきいたベッドカバー… ううん、世の中には、解かないほうがいい答えだってある。

すべてが曖昧で、不確かなこの世界にあって、その瞬間、ひとつだけ確かなことがあったとするのなら、芋も私も、まえに進もうとしていたということ。うしろを振り返ったって、うんこしか残されていないのだから。

教訓、その四。まえに進むためには、なにかを置いていかなければならない。

そして、うんこは分離した。

もしも、あなたがわたしなら

ペプチドの鎖でつながれたまま、丸裸で、ふりまわされ、ひきずられ、たたきつけられつづけたのだから。”もしも、あなたがわたしなら”。そこらじゅうに散らばったうんこが、そう問いかけてくるようで。

これは、尻にうんこをぶらさげた子猫に家のなかをくそまみれにされた、新米飼い主の不ウンのものがたりであり、髪の毛をのみこんで腹のなかでうんこがつながってしまった、子猫の悲ウンのものがたりでもあり、もじどおりその髪の毛に”まきこまれ”た、うんこの数奇なウン命のものがたりでもあるのかなって。

教訓、その五。うんこの身にもなってみて。

うんこはともかく、にゃんこはこれもう、拭いてどうこうって感じじゃないなって。うんこまみれのにゃんこでも、にゃんこまみれのうんこでも、うんこはうんこ。水で流さなくちゃ。

風呂場の馬鹿力

無事に(?)、さいごのうんこの分離をみとどけ、本棚に刺さって身動きがとれなくなっていた芋と、尻の髪の毛をひっこぬいて、そのまま浴室へランデブー。

はじめてのシャンプー。子猫にとっては洗礼、主にとっては”修羅場”。子猫とはいえ、火事場の… というか、風呂場の馬鹿力には、腕が何本あっても足りやしないてなもん。ぬいぐるみでも洗うくらいのかるいきもちで、猫に水をかけた阿修羅たちの痛々しい腕を、なんど見てきたことか。もし、猫の取扱説明書をつくるなら、お手入れのページのはじめには、こう書かなければならない。

”不必要な水洗いはしないでください。怪我の原因になります。”

蛇口の水に、じぶんからあたまをつっこむ好奇心のつよい猫もいる。でも、ずぶ濡れになると話は別。猫は、水そのものではなく、”体温が下がること”に本能的な恐怖を感じるようにできている。もともと、砂漠のいきものだから。猫の被毛は、”濡れやすく、乾きにくい”。たとえば、ずぶ濡れの毛布を着せられ、夜の砂漠にほうりだされたらとおもうと、猫じゃなくたって死しか感じない。

いまとなっては、水洗い以外の方法もおもいつくけれど。新米飼い主の無知で、ひどいことをしてしまった。ただでさえ、うんこで鞭打たれ、傷がこびりついたであろう、そのからだに。

教訓、その六。”猫 シャンプー 不必要”で、オーケイグーグル。

モノがたりは終わらない

教訓、その七。猫は、ぬいぐるみに非ず。

もう、うんこのことなんてどうでもよくて。腕の傷から滲みだす、血の混じった水で芋を清めているうちに、なんだか、通過儀礼でも終えたかのような神聖なきもちになってきて。猫は猫であるまえに、なまみの動物なんだって。洗礼を受けたのは、私のほう。

芋とうんこのエピソードは、枚挙に暇ない。いろいろあって、靴のなかにうんこが入っていたこともあるし、いろいろあって、キッチンのシンクのなかでうんこが泳いでいたこともあるし、いろいろあって、素手でわしづかみしてしまったこともある。

いつからか、彼女はモノをトイレにしなくなり、私は彼女のモノをひろいあつめるのが日課になり、やがて、おたがいにそのことに違和感をおぼえなくなるほど、ふたりの感覚は麻痺していくのだけれど。そして、モノがたりは、”トイレが消えた日”へとつづいていく。

風呂場で浴びたあの黄色い液体は、きっと聖水。ひっかき傷が、すっごいひりひりした。