guremike

白猫とブリショと八割れ

通いなれた公園も、カメラをもって歩きまわると、あたらしい発見だらけ。小道や獣道を見つけると、かたっぱしから入ってみたくなる。そのひとつが、彼らのひみつのアジトにつながっていると知ったのは、公園に通いだしてから何年もしてからのこと。いつのまにか、私は写真を撮ることよりも、野良猫たちに会うために公園に通うようになった。まだ、猫とくらすまえのできごと。

公園の白猫

まいにちのように猫たちを観察していると、顔ぶれや人脈ならぬ”猫脈”のようなものがわかってくる。彼らにもグループやなわばりのようなものがあるらしい。そのどれからも、すこし離れたところにある並木道のはずれで、ある秋、一匹の白猫と顔なじみになった。

雪のようにまっしろで毛なみもよく、ほかの猫とはずいぶんちがう感じがした。いかにも新入りといった様子で、どのグループにも入れないのか、いつもひとりでいた。私は、まいにちのように白猫に会いににいった。白猫も、いつもおなじところにいた。落ち葉をほうりなげると、まわりの木を蹴りながら、跳ねまわる。私たちは、よく日が暮れるまであそんだ。

雪がとけた日

いつのまにか、雪のようにまっしろだった体は、うすよごれて泥のまじった道端の雪塊のようになった。そのうち、いつもの場所にいたり、いなかったりするようになった。顔をあわせてもそっぽを向いたりする。表情はこわばって、顔じゅう目ヤニだらけ。べつの猫のようになっていく様子を見かねて、なんどか、公園のルールをやぶってパンをさしだしたこともあった。食べてくれたことはなかったけれど。

その冬、東京はめずらしく大雪だった。積雪と凍結の影響で公園はしばらく閉鎖され、私も年末の忙しさが重なって、つぎに白猫に会いにいけたのは、さいごに会ってからひと月がすぎたころだった。大雪ですみかを変えたのか、それとも私が見つけられなかっただけならよいのだけれど。まだところどころに残っていた泥まみれの雪塊と、なんどみまちがえたことか。白猫は、まるで雪がとけるように、どこかへ消えてしまった。

セールのブリショ

猫のことがあたまから離れなくなった。近所のショッピングモールへいくと、それまで気にも止めなかったペットショップに足が向く。新入りのチビがやってきたなとおもうと、つぎにお店にいったときには、もういなくなっている。そのなかに、ひとまわり大きなブリティッシュショートヘアがいた。狭いケージのなかで、ぴょんぴょん跳ねまわるまわりの子猫たちには目もくれず、隅っこで寝てばかりいた。

私は、その猫のことが気になって、まいにちのように様子を見にいった。日に日に価格が下がり、ケージが小さく見えだすと、セールの札が貼られ、そのうちいなくなった。おもいきって、店員に「このなかにいたブリショ、売れたんですか?」と尋ねると、「いいえ、べつの場所にうつしました。」と告げられた。

フードコートの八割れ

ペットショップを出て、フードコートのテラスで猫たちのことを考えながらぼうっとしていると、垣根の下から一匹の黒のはちわれが顔をだした。そこらじゅうに愛想をふりまいて、たべものには困っていない様子。公園の白猫やセールのブリショよりも、ずいぶん元気そうに見えた。パンをちぎってさしだすと、みずしらずの私の膝のに乗っかって、そのままトグロを巻いた。とてもあたたかくて、ずっとそうしていたかったけれど、はちわれはすぐにつぎの獲物をみつけて、べつの主のところへいってしまった。おもわず「あっ」と手が伸びた。

それからひと月がすぎた、春のおわりのある日。十代から住み慣れたその街を離れ、猫と暮らせる家に引っ越した私は、公園の白猫たちの写真をながめながら、とある二匹の子猫に会うために電車にゆられていた。