レゴと少年 #2

同じような部品をいくつも組み立てていく。それらは、また同じようにいくつもの部品の一部に組み込まれていく。鏡で鏡を覗くような、終わりのみえない作業。三歳なのにというか、三歳だからこそというべきか、この集中力の源はどこからやってくるのだろうか。

チェスタトンの随筆を思い出す。子供がリズムにあわせて、あきもせず地面を蹴り続けられるのは、彼らが活力に溢れているからだそうだ。その溢れる活力をレゴに注いでもらえるのは、こちらもありがたい。オーブンレンジのドアを破壊されるよりは。

ねこ #110 春号

ねこでの連載も五年になります。五年というと、彼らの人生の、というか、猫生のちょうど半分ですから、もじどおりその半生を本連載とすごしてきたことになります。そこに書かれているのは、彼らと私たちのくらしに起こった、ふしぎでたあいもない事件の数々です。

電気ポットと猫を一週間、見間違えつづけた話。うんこを手づかみした話。ダーウィンも猫なで声必死の猫進化論。東日本大震災の波打つ家のなかでの猫救出劇。猫とくらすきっかけをくれた野良猫との思い出。グレーと三毛の兄妹猫との出会い。そして、別れ。

なにを書くか、どう書くか、はて書くべきなのか。悩んだ末に、おべんじょの話になりました。生とおなじように死も、彼らの魅力のひとつとして。シンプルに、ちからづよく。いつかこれを読みかえしたとき、また猫とくらしたいとおもえるように。

はなむけの言葉に。

ヘビー級

蝶のように舞わず、鉢のように座る。

レゴと少年 #1

両腕にいっぱいの箱。自分のこぶしほどもあるタイヤ。300ページの分厚いマニュアル。ピース数は、これまで彼がビルドしてきたキットとは桁違いの1580ピース。ちいさなレゴビルダーの、おおきな挑戦。

まずは、色分けから。山のように積まれたブリックから目当てのひとつを探しだす作業は、三歳児には藁の中から針を探すようなもので、組み立てよりも集中力を使う。早くつくりはじめたい気持ちはわかるが、このプロセスは欠かせない。

息子のエンジンは、ちいさいわりに高出力で、食事も睡眠も忘れ、走りつづける。夢中になれるものがあるのは良いことだが、いねむり運転は事故のもと。夢の中に入りすぎてブリックを手に小便をもらすなんていう大事故は、もうごめんだ。

まだ彼は、アクセルを踏みつづけることしかできない。ブレーキをかけるのは、僕のやくめ。作業は一日二時間まで。のんびりいこう。それに、三歳児の毎日は意外と忙しい。

緑化大使

兄の一件を省み、妹をあらためて先生によく診てもらったところ、ただ太っているだけで健康とのことだった。猫は我慢づよいから。具合がわるくても、さいごのさいごまで黙っているんだよね。おかしなことに気づいてからでは、あっというまに死んでしまったりするから。いちにちでもながく、ただ太っているだけの健康な猫でいてほしい。

ところで、さすがただ太っているだけあって、4.8キロまで減らしたはずの体重が、また5キロ台に。兄の死で肥やしたのは舌だけかとおもっていたが(おもいたかったが)、以ての外というか、案の定というか、笑い草と語り草で大草原。兄の枯れ跡にできてしまった、わが家の砂漠の緑化大使に任命したい。

ワイパーが付いた日

息子がオリジナル作品をこしらえるたびに、記録用に写真をアーカイブしていたのだが、近頃はすぐに分解して別のものにしてしまうので、撮影がおいつかなくなってしまった。

「のりもの」がテーマの作品を幾つか。こうして時系列にならべて見比べると感慨深い。一番上と一番下の写真では、三ヶ月しか変わらない。三ヶ月が彼にとって、いかに濃密な時間なのかよくわかる。ワイパーを再現しているあたりなど感心した。

子供の三ヶ月の価値は、大人の三年分はあるね。それ以上かもしれない。大人にとっては、子供との三年の価値は三十年分はありそうだが。

彼の三年半の人生は、本当にレゴ一色でブリックに触れない日はない。一歳の時にデュプロの機関車をプレゼントして以来、レゴが好きになるよう暗に仕向けてきたのは確かだが、これほど生活の一部になるとは思わなかった。家にいる時間の半分以上をレゴに費やしているんじゃないかね。家の外でもだが。

天高く猫肥ゆる #2

兄の死について、妹はどうおもっているのだろうか。動物に死の概念はないというが、まさか気づいていないとはおもいたくないが、「いつものあいつは?」ぐらいには感じているのだろうか。それとも、もういなかったことになっているのだろうか。いずれにせよ、どうでもよいことなのかもしれない。とくに変化はない。

もとから、いていないようなものだったし、いまもいなくているようなものなのかもしれないし、かたっぽが死んだぐらいで、彼らのふしぎな間柄にそれほど影響はなさそうだ。

妹は子猫のころからそうだった。兄が病院の匂いをつけてくるたびに、怒ったり殴ったりした。そうでなくとも、通りすがりや出会いがしらに気まぐれに一発おみまいしたり、手がだせない窓のむこうの野良猫の代わりにとなりにいる兄にとびかかったりするような、傍若無猫。妹にとって兄はいったいどんな存在なのだろうと、よくおもわされた。

死にぎわにまで殴られるとは、兄もつくづく気の毒なやつだが、当代きっての名女優のような妹のぶれなさには、ずいぶん救われた。変わり果てていく兄をみるのはつらかったが、ふしぎと笑いがたえなかったのは、それ以上に変わり果てない妹のおかげ。彼女は大物だった。肉体的にも、精神的にも。二匹いてよかった。

妹の変化をいうなら、舌が肥えたことぐらいだ。枯れゆく猫に、肥ゆる猫。この不釣り合いのここちよさに、在りし日の頬毛をおもう。兄がのこした未開封のおやつのことは、しばらく妹には内緒にしておこう。

はらぺこ天女、そのあと

きょうも早朝から慌ただしくまいおりる天女をみていたら、ふと気づきました。そういえば、わが家にはおなじフードボウルがふたつあるんだよね。百年に一度どころか、一日に百度まいおりても、きっと数億年はだいじょうぶ。せっかくだから、兄のぶんまでなめにやっておいで。でも、フードボウルがふたつあろうと、いくら神秘の力を宿そうと、飯が湧いてでるのは朝晩一回だけだから、あしからず。

はらぺこ天女

天女がまいおり、羽衣の袖で岩をさらりとひとなでして去っていく。百年するとふたたびまいおり、またひとなで。また百年。そのまた百年。天女は百年にいちどまいおり、岩をひとなでする。その極微の摩擦で、十キロメートルもの岩山が消えてなくなるまでの気の遠くなるような時間を、仏教では「億劫」と呼ぶのだそうな。

奇しくも、わが家にも天女がまいおりる。くる日もくる日も、寝床と便所と飯の器を往復しているだけの、なにもかも「おっくう」そうにしているだらしのない天女が。

わが家の天女は、朝飯をあっというまにたいらげるとほどなくまいおり、空の器をぺろりとひとなめして去っていく。ひと眠りしてはまいおり、またひとなめ。見回りのついでにも、ひとなめ。便所のついでにも、ひとなめ。日が暮れるにつれ、さらに頻繁にまいおりるようになり、そうこうしているうちに飯の器は、まるで神秘の力でも宿ったかのように、うまれたてのかがやきを放ちだす。

ステンレスのこのフードボウルが消えてなくなるのは、いつのことだろうか。それまで生きているだろうか。いや、化け猫になってもなめにやっておいで。