はらぺこ天女(書き足し)

きょうも早朝から慌ただしくまいおりる天女をみていたら、ふと気づきました。そういえば、わが家にはおなじフードボウルがふたつあるんだよね。百年に一度どころか、一日に百度まいおりても、きっと数億年はだいじょうぶ。せっかくだから、兄のぶんまでなめにやっておいで。でも、フードボウルがふたつあろうと、いくら神秘の力を宿そうと、飯が湧いてでるのは朝晩一回だけだから、あしからず。

はらぺこ天女

天女がまいおり、羽衣の袖で岩をさらりとひとなでして去っていく。百年するとふたたびまいおり、またひとなで。また百年。そのまた百年。天女は百年にいちどまいおり、岩をひとなでする。その極微の摩擦で、十キロメートルもの岩山が消えてなくなるまでの気の遠くなるような時間を、仏教では「億劫」と呼ぶのだそうな。

奇しくも、わが家にも天女がまいおりる。くる日もくる日も、寝床と便所と飯の器を往復しているだけの、なにもかも「おっくう」そうにしているだらしのない天女が。

わが家の天女は、朝飯をあっというまにたいらげるとほどなくまいおり、空の器をぺろりとひとなめして去っていく。ひと眠りしてはまいおり、またひとなめ。見回りのついでにも、ひとなめ。便所のついでにも、ひとなめ。日が暮れるにつれ、さらに頻繁にまいおりるようになり、そうこうしているうちに飯の器は、まるで神秘の力でも宿ったかのように、うまれたてのかがやきを放ちだす。

ステンレスのこのフードボウルが消えてなくなるのは、いつのことだろうか。それまで生きているだろうか。いや、化け猫になってもなめにやっておいで。

ねこ #109 冬号

なぜ、猫年は存在しないのか。年があけるたびに考えずにはいられない、にゃんともふしぎなこのプロブレム。もしも、猫があったなら。あまねく愛猫家を、そんな妄想の旅へといざなう、連載「名前は、まだない」第十八回。

そもそも、干支の選抜基準からして、愛猫家には「はいそうですか」とは受け入れがたいものがあります。犬がいて猫がいないのはともかく、ネズミがいて猫がいないなんて、窮鼠も噛む相手に困るてなもんです。はて、神さまとやら。ここらでいっそ、ハムスターとかパンダとかアルパカとか、人気のどうぶつをいまいちど集めてみては?選抜方法は、秋元康にでもおねがいすればよろしいかと。

二〇一九

クリスマスソングなんて聞くような人間ではないのに。もう一月もおわりだというのに、まだ聞いている。兄のいない年の瀬にとくべつな意味をもたせたかったのかもしれない。

役立たずのおちこぼれ!
薬中のあばずれ!
死にぞこない!
クズ!ウジ虫!ホモ!
ハッピークリスマス!クソが!

最低の冬だったけれど、最高の冬だった。ハッピーニューイヤー!クソが!

天高く猫肥ゆる #1

猫暮らし十年のこの冬、ぐれみ家では史上最大の贅沢のかぎりがつくされた。毎朝毎夜、肉や魚介のスープがふるまわれ、その合間にも猫の食指を動かすためならと、粗食の禁忌をやぶりあらゆるものがためされた。それでも日に日に痩せこけていく兄をしりめに、ひとしれず食指を暴走させる猫がいた。

猫の舌を肥やしてよいことなどひとつもない。彼女なんて、ただでさえ腹が肥えているのだから。兄のためにあの手この手の主に、あんたのそのまるこい猫の手でも貸しておくれよてなもんだ。妹がいないすきをみはからって、こっそり兄の給餌のしたくができていたのも、はじめのうち。ことさら食においては、ときに信じられないような能力を発揮するのが、彼女という猫。家のどこにいてもおいしそうな匂いを嗅ぎつける嗅覚。フードのパウチをひらく針がおちるほどの音を聞きわける聴覚。まるでそれを予知するかのように台所にさきまわりする超感覚。

もうなにも見逃さない ――― この冬、彼女はついに台所に住みだした。冬眠のしたくもそっちのけで台所に籠城し、主たちの一挙一動に眼を光らせだしたのだ。キッチンが中心のくらしどころか、キッチンの中心でくらすなんて、ハウスメーカーもまさかのミニマルライフ。かくして、妹は十年にいちどの食の祭典への便乗に成功した。

この猫、手は貸さずとも、腹は貸してくれる。おかげで、兄のたべのこしを捨てる手間が省けたてなもんだが、たべのこしどころか、寝たきりの兄にいっぱつ猫パンチをおみまいしてフードボウルごとぶんどったりもした。十年つれそった相棒が、いまにも死にそうだってのに。でも、それが動物の強さであって、魅力であったりするのかもしれない。彼らは、死ごときでうろたえはしない。

紐と木天蓼

それは、十五分前のできごとでした。病院の匂いがしみついてしまった兄をずっと遠ざけていた妹が、このときだけ、めずらしくそばにやってきました。二階のひだまりにさそわれたのか、兄のたべのこしをかぎつけたのか、それともほかになにかあるのか、わかりません。猫語を話せるようになったら、聞いてみたいことがひとつふえました。

スマートフォンでのこの一枚は、これまでのどのカメラのどの写真よりも愛にあふれているようにおもえて、なんどでもみかえしたくなります。ふたりのくっつく姿がみられない冬なんて、この十年いちどもなかったし、はじまりの日からずっといっしょだった彼らのあいだが、このまま離れていくのは寂しかったから。

十二月の空は飛びたつにはすこし寒いけれど、その日は雲ひとつなく天までつきぬけるようでした。長旅の荷づくりはシンプルが鉄則です。いつものアマゾンの箱にゆられながら、だいすきな青い紐と、またたびの枝をくわえて。

ノリノリショウヘイ

息子の園友に「ノリノリショウヘイ」と呼ばれる人物がいる。三歳児など、どれもたいていノリノリだが、その三歳児たちをしてノリノリと言わしめるとは、さぞやノリにノッているショウヘイなのだろう。

ところが、しばらくするとノリノリショウヘイは「モリモリショウヘイ」へと変わった。モリモリごはんをたべるショウヘイにでもなったのだろうか。それとも、モリモリうんちをするショウヘイなのだろうか。そもそも、モリモリとはどういう状態なのか。息子に理由をたずねても「モリモリはモリモリだよ」という、哲学的な答えしか返ってこない。

ふたりの交流が深まるにつれ、会話のなかにも頻繁にモリモリショウヘイが登場するようになり、モリモリモリモリ聞かされているうちに、私の謎もモリモリ深まっていった。

謎が解き明かされたのは、クラスメイトの名簿と集合写真を見たときだった。息子に「どの子がモリモリショウヘイなの?」と聞くと、まっすぐ指さしたのは、じつにおとなしそうな顔をした「もりやましょうへい」と書かれた人物だった。三歳児とのくらしは、まいにちが空耳アワー。