ノリノリショウヘイ

息子の園友に「ノリノリショウヘイ」と呼ばれる人物がいる。三歳児など、どれもたいていノリノリだが、その三歳児たちをしてノリノリと言わしめるとは、さぞやノリにノッているショウヘイなのだろう。

ところが、しばらくするとこんどは「モリモリショウヘイ」と呼ばれるようになった。モリモリごはんをたべるショウヘイにでもなったのだろうか。それとも、モリモリうんちをするショウヘイなのだろうか。そもそも、モリモリとはどういう状態なのか。息子に理由をたずねても「モリモリはモリモリだよ」という、哲学的な答えしか返ってこない。

ふたりの交流が深まるにつれ、会話のなかにも頻繁にモリモリショウヘイが登場するようになり、モリモリモリモリ聞かされているうちに、私の謎もモリモリ深まっていった。

謎が解き明かされたのは、クラスメイトの名簿と集合写真を見たときだった。息子に「どの子がモリモリショウヘイなの?」と聞くと、まっすぐ指さしたのは、じつにおとなしそうな顔をした「もりやましょうへい」と書かれた人物だった。三歳児とのくらしは、まいにちが空耳アワー。

タイムトラベラー

息子はいま起きていることのほとんどを忘れてしまうというのに、僕らは死ぬまで覚えているのだろうとおもうと、すこし不平等。黒歴史が歩いているようなものなのに。幸か不幸か、手軽に写真や動画を残せる時代。あの顔とか、あの踊りとか、こっそり撮りためていますので、あしからず。

ところで、写真や動画を見て懐かしむのは、三歳児もおなじらしい。ほんの一年まえのことも、彼には人生の三分の一なのだから、遠い昔のような感覚があっても不思議ではない。ジャネの法則を思い出す。

言葉のダムが決壊したようによくしゃべる。あふれだす会話の洪水に、こちらは息継ぎをする暇もない。三歳を境に、とりとめのなかった彼の話はずいぶんそれらしくなって、自分の気持ちや考えもはっきりと伝えられるようになった。というより、これまでも言いたいことや言い返したいことが、山ほどあったんだろうなあと思う。

ほんの数ヶ月前まで、息子の時制には「きのう」しか存在しなかった。一日前のことも、一週間前のことも、一ヶ月前のことも「きのう」だった。感覚的には存在していたのかもしれないが、ごちゃまぜに積まれた「きのう」のカードの山から唐突にどれかをひきぬいて、文字どおり、まるで昨日のことのように話し出すので「どのきのう」のことかわからず、よくタイムトラベラーとでも話しているような気分にさせられた。

いまこれを書いていて思ったが、生物進化の数億年という旅路をたったのトツキトオカでやってきたと考えれば、腹のなかにいたころの彼の一日は数百万年にあたるわけだから、本当にタイムトリップしてきたようなものだ。じつは、彼らはタイムトラベラーだったのかもしれないね。

病は主から

この三年、育児にかまけて猫たちの世話がおざなりになっている。まいにちのようにつかっていたブラシも、どこにしまったか思いだせないこともある。どこか悪そうなら病院につれていけばいいしと、ついかんたんに考えてしまう。

この間、兄がカーペットに爪をひっかけて踠いていたので外してあげると、そのまま床にころがるように倒れこんでしまった。立ちあがろうとすると、また左側に倒れてしまう。踠いた拍子に前脚でもひねったのだろうとおもいたかったが、斜頸と眼振があきらかに耳か脳の異常をおもわせるもので、すぐに病院へかけこんだ。

腎不全の悪化にくわえ、貧血をひきおこしていた。兄はもともとよく吐く猫で、半年前にも十歳の区切りに入院検査をさせている。いくつか問題がみつかって、とくに腎臓については注意を払ってきたのだが、療法食の味気無さがもともとの食細をさらに細らせ、体重は3.2キロから2.5キロまでおちてしまった。突発性前庭障害とおぼしき症状については、一時間ほどでおさまったのだが、手術や投薬で治るようなものではない。これを書いている今も、眼振はおさまったが、ふらつきがみられる。まずは、減りすぎた体重をもどさないといけない。なんでもいいから、食べてもらうしかない。

ここからは私の勝手な想像だが、もし爪をひっかけて身動きできなくなったストレスが発作を引き起こしたのだとしたら、その原因をつくったのは爪を尖らせたままにしていた主だし、爪切りをどこにしまったか忘れてしまうぐらいほったらかしにしたり、まとわりついてきてもすげなくしてしまったり、そうしたなにげない態度が猫にストレスを与えつづけていたのだとしたらと、居住まいを正すおもいでこの三年の猫とのくらしを省みる。

こどもが生まれたことでの環境の変化も、とくに兄のような人間依存のつよいひとなつこい猫にとっては、うけいれがたいものだったのかもしれない。こればかりはどうしようもないが、息子には猫との接し方はよく言い聞かせてあって、それなりに気づかいをしてくれている。けれど、三歳児には理解の限界があって、いまもときどき兄に殴られてひっかき傷をつくる。

猫も古びれば、まわりのことに興味をなくしたり、頑固になってくる。くらしの変化にも、むかしのようには耐えられないのかもしれない。あんなに人のことが好きで誰彼かまわずまとわりついていたのに、ふと目をやれば、ひとりでいる姿をみかけることがふえた。やせ細った兄の枯れ木のような影に、この三年のじぶんのうしろめたさが見え隠れする。いつのまにこんなにちいさくなってしまったのだろう。腕のなかの彼が、まるで小鳥のようにかるい。いまにもどこかにとびたってしまいそうで、抱く手にちからが入る。

猫はサイコロを振らにゃい

ごはんがたっぷりのっかったお皿と彼女を箱にいれ、蓋をとじる。しばらくしたあと、彼女はこの密室のなかで、おなかをぱんぱんにしているか、ぱんぱんにしていないか ───

量子力学のとある解釈によれば… いや、ちょっと待って、そのまえに。これから私はものすごくいいかげんなことを言うつもりだ。ぜひ、「なるほど、ここはひとつ、ものすごくいいかげんなことを言われてみようじゃないか。」そんな、貪欲なきもちでお読みいただきたい。さあ、ぐれみ研究所の最先端猫学のふしぎと怠惰の扉をノックしよう。

彼女のおなかの "ぱんぱんさ" は、箱の蓋をあけ、私たちが彼女のおなかに目をやった瞬間に決定する。もっと言えば、箱のなかでは、おなかがぱんぱんの彼女とぱんぱんでない彼女が重ね合わせに存在している。いま、あなたのあたまのなかも、はてなマークでぱんぱんしているかもしれない。しかし、にゃんこ力学におけるとある解釈は、これに異論を唱えている。

めくるめくこの因果律の世界にあって、彼女のおなかもまた、その法則にきわめて従順でありながら、ときに彼女の空腹の波動は時空をものみこむようなスリルを感じさせる。まるでブラックホールのように。蓋をあけようとあけまいと、彼女がおなかをぱんぱんにしているのは自然的必然であり、宇宙的秩序なのかもしれない。

にゃんこ力学のふしぎと怠惰の世界へようこそ。くっくっくっ。

さて、そこに猫がいるのは、あなたがその猫を観ているからだと言われたら奇妙におもうだろうか。反対に、もし猫を観ていないとしたら、そこに猫はいないかもしれないし、やっぱりいるかもしれない。猫がいる未来と猫がいない未来、あるいは過去も、おなじ時空の箱のなかに浮かぶ面のごとく重ね合わせに存在しているとしたら。そう、サイコロの目のように。

猫とのくらしは、奇妙の連続だ。たったいま一階にいたはずの猫がなぜか二階にいたり、窓辺のひだまりにいたはずの猫がつぎの瞬間には窓の外にいたり、こたつのなかにいたはずの猫がいつのまにか膝のうえにいたり… その様子は、分裂でもしているか、テレポーテーションでもしているかのような、私たちの日常的感覚とは、まるでかけはなれたおどろきをあたえてくれる。

そんな奇妙な猫とのくらしに恋い焦がれる、あなたのすぐうしろにもサイコロをふって奇数の目がでるか、偶数の目がでるかぐらいの確率では、彼らは存在しつづけているかもしれない。にゃんこ力学の世界では、野良猫をおいまわしたり、猫カフェをひやかしたりしなくとも、すでにあなたは二分の一の確率で猫の主なのだ。

人と猫をすこし幸せにする学問 ─── にゃんこ力学のへりくつと超理論の世界へようこそ。ひっひっひっ。

紋所

目に入っても痛くない、わが家のもんどころ。ひかえおろう☆彡

レゴランド東京

とても良かった。公式名称は、レゴランド・ディスカバリー・センター。平日の昼間とあってか混雑もなく、まわりは外国人の子連れがほとんど。海外にでもいるかのような錯覚。

子連れ以外は入場おことわりという潔さ。雰囲気が垢抜けていて、風通しがよく、まわりに気を使うこともない。お台場というロケーションがドライブにも良い。おもわず、年間パスポートを購入してしまった。

施設内は、ジオラマやオブジェはもちろん、さりげのないオーナメントまでレゴで組まれている。ひとつひとつ興味深そうに足をとめては、どう組まれているのか見入る息子。クリックブリックでも見かけない、レゴランド限定とおぼしき機関車セットをおみやげに。いかにもレゴらしい、クラシックな設計と配色。

レゴと言うと、日本でも名前をよく聞くわりには馴染みがないようで、親が好きでもないと触れる機会も少ない玩具かもしれないけれど、地球人ひとりあたり八十ピースだったかな、持っている計算になるそうです。息子はそれよりもずいぶんたくさん持っていますが。レゴは未来への投資。