三歳のエミネム

テレビを置いていない。代わりに、音楽が流れている。息子と音楽の接点といえば、それと僕のギターぐらいしかない。三歳らしからぬ彼のユニークな音楽選好は、アップルミュージックのプレイリストの再生回数と、リトルマーチンの弦の錆ぐあいと相関があり、ザイオンスの法則が、これを証明している。

選りに選って、家のなかを走らないからとか、食事のときにふざけないからとか、自ら条件を提示してまで聞きたがるのが、エミネムだったというのは興味深い。

事の始まりはミュージックビデオだった。いったい何がこれほど興味を惹きつけるのか、息子に問うと「黒い人」のことが気になってしょうがないらしい。特に、彼らがエミネムたちの猿真似をするシーンが好きらしい。不思議で不気味な世界観に、絵本のような趣きを感じているのかもしれない。

何百回、聞かされたことか。いい加減、飽きたし、エミネムの真似とやらの意味不明なラップも小煩くてしょうがない。一時はエミネム禁止令が発令されたこともあるが、息子が切ってくる取引のカードは、そう悪いものでもなく、結局、いまも毎日のように聞かされている。

条件をきちんと履行できた日は、ビデオの視聴権も獲得できるので、自ら進んで歯磨きをしたり、片付けをしたり、苦手なパプリカだって食べようとする。幾ら飽きても、少々小煩くても、こちらも手放すには勿体無いカードである。

あの「黒い人」の正体が、自分だったと息子が気づくのは、いつのことだろうか。それよりも、もっと興味深いのは、息子は主演のふたりを「帽子をかぶっているほうとそうでないほう」で見分けていることだ。

三歳児は、肌の色など見ていない。

猫の字

猫という字を、よくごらんになってみてください。猫と猫が、ぜんぜん支え合っていないでしょう?だから、彼らは自由なのかもしれませんね。

二匹の技法

あるときは、ジグソーパズルのように。あるときは、デカルコマニーのように。あるときは、メトロノームのように。彼らは、ふたつになったり、ひとつになったりする。

アーティスト #5

あるときは、おもちゃ箱にとびこみ、ピノキオ的神話における哲学的対話をつうじ、生命と非生命の境界へ迫ってみせた。

アーティスト #4

あるときは、運命室内飼いの檻をこじあけ、自由の翼をはためかせてみせた。

ネコ好ミクスデザイン

あらゆるボディにフィットする、プレミアムな寝心地。これまでにない爪のひっかかりと、最先端のにゃんこ工学に基づいた、インテリジェントな研ぎ心地。すべての猫に、ワンランク上のぐうたら体験を。

(※椅子としても使えます。)

レゴと少年 #3

どれほど小さな部品であっても、そのすべてに何か意味がある。レゴが教えてくれることは多い。豆粒のようなピースを手に取り、息子はその意味に迫ろうとする。どうやら、このエンジンのアセンブリは、車輪の回転にピストンのストロークが連動するらしい。

毎週のようにクリックブリックへ足を運ぶ。大好きなレゴに囲まれ、息子は夢を巡らせ、僕は童心に帰る。ふたりのニーズが一致する、特別な場所というわけだ。三歳になってまもない頃、ショーケースに飾られた青いスーパーカーに彼の目は釘付けになった。

ブガッティ・シロン。レゴテクニックのフラッグシップモデルだそうだ。実車同様、価格にも驚いたが、息子から出た言葉にさらに驚いた。これを作りたい ――― 欲しいではなく。こんなものを作る対象として見ているとは、なんと大胆不敵なやつめ。

大人の練達ビルダーであっても完成に丸一日はかかるそうだから、三歳の少年がいますぐ作れるような代物ではないし、ここで無理とかまだ早いと言ってあきらめさせるのも簡単なことだが、三歳の少年だからこそ、その初めて声に発したであろう夢らしきものを、親の都合で蔑ろにするわけにもいかないだろう。

夢の実現には、計画が必要だ。そして、計画には陰謀がつきもの。彼は、欲しいのではなく、作りたい。僕は、作りたくはないが、欲しい。ここでも、ふたりのニーズは完全に一致してしまったというわけだ。

遊びであれ、学びであれ、子と親が何かを一緒にはじめようという時は、その間柄においてもウィンウィンであることに越したことはないと思う。例えば、親の趣味に付き合わされ、山だの海だのと連れ回されたおかげで、キャンプもバーベキューも大嫌いになってしまった、かつての少年のことを僕はよく知っている。

君はスキー板を車に投げつける必要はない。

アーティスト #3

あるときは、衣服にまぎれこみ、変幻自在のぬいぐるみボディでおどろきと毛まみれのイリュージョンを演じてみせた。

アーティスト #2

あるときは、感情のおもむくままに、壁一面のキャンバスに爪痕の彫刻を施してみせた。