アーティスト #5

あるときは、おもちゃ箱にとびこみ、ピノキオ的神話における哲学的対話をつうじ、生命と非生命の境界へ迫ってみせた。

アーティスト #4

あるときは、運命室内飼いの檻をこじあけ、自由の翼をはためかせてみせた。

ネコ好ミクスデザイン

あらゆるボディにフィットする、プレミアムな寝心地。これまでにない爪のひっかかりと、最先端のにゃんこ工学に基づいた、インテリジェントな研ぎ心地。すべての猫に、ワンランク上のぐうたら体験を。

(※椅子としても使えます。)

レゴと少年 #3

どれほど小さな部品であっても、そのすべてに何か意味がある。レゴが教えてくれることは多い。豆粒のようなピースを手に取り、息子はその意味に迫ろうとする。どうやら、このエンジンのアセンブリは、車輪の回転にピストンのストロークが連動するらしい。

毎週のようにクリックブリックへ足を運ぶ。大好きなレゴに囲まれ、息子は夢を巡らせ、僕は童心に帰る。ふたりのニーズが一致する、特別な場所というわけだ。三歳になってまもない頃、ショーケースに飾られた青いスーパーカーに彼の目は釘付けになった。

ブガッティ・シロン。レゴテクニックのフラッグシップモデルだそうだ。実車同様、価格にも驚いたが、息子から出た言葉にさらに驚いた。これを作りたい ――― 欲しいではなく。こんなものを作る対象として見ているとは、なんと大胆不敵なやつめ。

大人の練達ビルダーであっても完成に丸一日はかかるそうだから、三歳の少年がいますぐ作れるような代物ではないし、ここで無理とかまだ早いと言ってあきらめさせるのも簡単なことだが、三歳の少年だからこそ、その初めて声に発したであろう夢らしきものを、親の都合で蔑ろにするわけにもいかないだろう。

夢の実現には、計画が必要だ。そして、計画には陰謀がつきもの。彼は、欲しいのではなく、作りたい。僕は、作りたくはないが、欲しい。ここでも、ふたりのニーズは完全に一致してしまったというわけだ。

遊びであれ、学びであれ、子と親が何かを一緒にはじめようという時は、その間柄においてもウィンウィンであることに越したことはないと思う。例えば、親の趣味に付き合わされ、山だの海だのと連れ回されたおかげで、キャンプもバーベキューも大嫌いになってしまった、かつての少年のことを僕はよく知っている。

君はスキー板を車に投げつける必要はない。

アーティスト #3

あるときは、衣服にまぎれこみ、変幻自在のぬいぐるみボディでおどろきと毛まみれのイリュージョンを演じてみせた。

アーティスト #2

あるときは、感情のおもむくままに、壁一面のキャンバスに爪痕の彫刻を施してみせた。

アーティスト #1

あるときは、腕をブラシのようにあやつり、あたりいちめんに水の芸術を描きだしてみせた。

レゴと少年 #2

同じような部品をいくつも組み立てていく。それらは、また同じようにいくつもの部品の一部に組み込まれていく。鏡で鏡を覗くような、終わりのみえない作業。三歳なのにというか、三歳だからこそというべきか、この集中力の源はどこからやってくるのだろうか。

チェスタトンの随筆を思い出す。子供がリズムにあわせて、あきもせず地面を蹴り続けられるのは、彼らが活力に溢れているからだそうだ。その溢れる活力をレゴに注いでもらえるのは、こちらもありがたい。オーブンレンジのドアを破壊されるよりは。

ねこ #110 春号

ねこでの連載も五年になります。五年というと、彼らの人生の、というか、猫生のちょうど半分ですから、もじどおりその半生を本連載とすごしてきたことになります。そこに書かれているのは、彼らと私たちのくらしに起こった、ふしぎでたあいもない事件の数々です。

電気ポットと猫を一週間、見間違えつづけた話。うんこを手づかみした話。ダーウィンも猫なで声必死の猫進化論。東日本大震災の波打つ家のなかでの猫救出劇。猫とくらすきっかけをくれた野良猫との思い出。グレーと三毛の兄妹猫との出会い。そして、別れ。

なにを書くか、どう書くか、はて書くべきなのか。悩んだ末に、おべんじょの話になりました。生とおなじように死も、彼らの魅力のひとつとして。シンプルに、ちからづよく。いつかこれを読みかえしたとき、また猫とくらしたいとおもえるように。

はなむけの言葉に。

ヘビー級

蝶のように舞わず、鉢のように座る。